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吾輩は猫である。名前は... ある。
このジャケットを見て即座に思い浮かべたのは、夏目漱石の傑作小説『吾輩は猫である』だった。おそらく、日本人だったら、一度は読んだことがあるのではないと思えるほどの傑作で、「吾輩(わがはい)は猫である。名前はまだ無い」と始まるこれは、すでに著作権が切れて、青空文庫からダウンロードして読むことができる。それが面倒なら、ここで読んでもいいだろう。
このアルバムの主、ギタリストでシンガー・ソングライターで、なおかつ映画音楽のコンポーサーでもあるライ・クーダーがこの小説を知っていたかどうか... 想像するしかないんだが、日本のツアーで楽屋に味噌汁がないと文句を言っていたという逸話も聞いているし、沖縄の音楽なども熟知しているなど、かなりの日本通と思われる。だから、ひょとしてひょっとしたら、この傑作小説もアルバムを作るきっかけになったのかもしれない。といっても、それは想像だけで、そうだったら嬉しいなぁと思っているに過ぎない。全くもって空想の域を出ていない戯言として受け流して欲しいのだが、どうもそのイメージがつきまとう。
その『吾輩は猫である』を念頭に置いて、このアルバムに込められた物語の始まりを紹介すると、こんな感じだろうか。
「吾輩は赤い猫である。名前は『ダチ公』。生まれは地図にも載っていないような片田舎の農場で、生まれてこの方、ここから一歩も外に出たことはない。先祖代々のみならず、親兄弟も、文字通り、猫の額ほどの土地から出たことはなく、外になにがあるのかなんぞ想像もできない」
と、生い立ちの説明があり、仕事もなにもなく、未来に希望もないこんな農場からおさらばして、スーツケースを持って『ダチ公』は近所の駅から貨物列車に飛び込んで旅に出るのだ。『ダチ公』に連れ添うことになるのはネズミのレフティ、『左寄り』と、相棒の名前や『赤い』猫から想像できるだろう、このコンビネーションはちょっとした左翼かぶれ... ってよりは、センチメンタルな人道主義者というのは、自分の想像なんだが、間違いなくライ・クーダーはそういったニュアンスをこの物語に込めているはずだ。それは旅で出会った人々や経験から生まれたとされる歌を聞けば容易に想像できる。そんな歌の数々がまるで「小説」のように、そして、映画のようにストーリーを展開しているのがこのアルバムだ。
不況で職はなく、職を追われた人々はホームレスとなり、路上で生活するようになる... 低賃金でこき使われる人たちは労働組合を作るのだが、そこには徹底的な弾圧が加えられ、ちょっとでも左かかった考え方を持っている人間は追放されるという赤狩りもあった。ストライキの連続があり、そこから歌も生まれていった。と、アルバムに込められたそんな物語がわかると、当然、頭に浮かぶのはアメリカで影響を受けていない人の方が少なかっただろう、フォークの神様とも呼ばれるウッディ・ガスリーだ。彼の人生を映画化した『わが心のふるさと』を見ていただければわかるのだが、1930年代の大不況時代に『流れ者』のような旅を続けていたのがウッディ。民謡のメロディなんぞを拝借したり、自分で曲を作りながら、極貧の生活の中で見たこと聞いたこと、そして体験したことを『ラジオで放送する』ように歌い続けていた人物だ。彼こそがボブ・ディランやブルース・スプリングスティーンに圧倒的な影響を与えたのはいうまでもない。
とはいっても、彼がここで単純にノスタルジックとして『古き良き、貧しきアメリカ』を回顧しているのではないことは明らかだ。それを彷彿させる『物語』で現代のアメリカを痛烈に批判しているのだろう。その路線は前作の『チャベス・ラヴィーン 』を聞いている人なら、容易に想像できるはず。9.11以来のアメリカ... というよりは、ジョージ・ブッシュが大統領になってから、格差が拡大し、世界最大のホームレス人口を誇ることができるようになったという今のアメリカがここに収められている歌に重なっていくのだ。そのあたり、ウッディの仲間であったピート・シーガーのトリビュートとして、ブルース・スプリングスティーンが録音した"We Shall Overcome"に近いものも感じる。
一方で、『ダチ公』の旅に重なるのは、ライ・クーダーその人の人生の旅、そして、音楽の旅のようにも思える。ルーツ・ミュージック探訪の旅でさまざまな音楽を消化し、飲み込んだ結果を形にしたとも言えるのが彼のディスコグラフィに並ぶ名盤の数々。フォーク、ブルースからジャズ、リズム・アンド・ブルースはもちろん、西アフリカからキューバに沖縄にインドやハワイと、これほどまでに世界中のルーツ・ミュージックを探求した人もいないだろう。なかでも日本人に嬉しいのは、バンジョーを三線のように演奏しながら、沖縄の音階を織り込んで歌われる"Cardboard Avenue(段ボール通り)"。ホームレスを歌った曲を嬉しいというのも間違っているように思えなくもないんだが...
さらに、"Paris, Texas"に代表されるように、ライ・クーダーは映画音楽の世界でも最も多くの傑作を残しているミュージシャン。そんなところからも想像できるだろう。このアルバムは素晴らしい「映画」のように仕上られている。目を閉じれば、まるでそれぞれのシーンが見えるように音楽が鳴り、言葉がささやかれるのだ。毎回毎回「名盤」と呼べるアルバムを送り出してくれるんだが、飛び抜けて完成された「ライ・クーダーの世界」を感じさせるのがこの作品。しかも、アルバムはまるで絵本のようなブックレットとなっていて、物語も記されているんだそうな。(実をいえば、現物は手にしていなくて、データだけでこれを聴いていたのだが、あまりの素晴らしさに結局、きちんとした翻訳も加えられた国内盤を注文したばかりなのです)
それはさておき、この「物語」がハッピー・エンドで終わるのかどうか... さぁて、どうなんだろう。なにせ最後を飾るのは"There's A Bright Side Somewhere(どこかに、明るい場所があるさ)"と名付けられた歌。絶望のどん底にあって、「いつか、どこかで、いい仕事がみつかって、いい家庭を持つことができるはずだ...」と歌われるということは、主人公がそうではないことを思わせるのだ。とはいっても、『ダチ公』は絶望していない。だからこそ、彼はそう歌うのだ。
おそらく、このレヴューを書かせたのはこの曲ではないかと思う。それほどに泣ける名曲なのだ。あの歌詞も素晴らしいし、それを演出するバックの演奏も涙腺を刺激する。かつて"Chicken Skin Music(チキン・スキン・ミュージック)"という傑作を一緒に録音したテックス・メックスの鬼才、フラコ・ヒメネスのアコーディオンにライ・クーダーのスライドは、酸いも甘いもわかる職人技を持つミュージシャンにしかできない芸当だ。そして、円熟味をましたいぶし銀のようなライの声。このところ、この曲を何度もリピートして聴いているんだが、ひさびさに胸が締め付けられた。できれば、みなさんにもそんな感覚を味わっていただければと思う。
ちなみに、この原稿を書いて数日後にCDが到着。買ってよかったと思う。音楽だけではなく、CDがそのまま絵本のようになっている。素晴らしい!
reviewed by hanasan
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